縁起分によると、開基は奈良時代神亀三年(726)頃。狩の最中、樹上に金色の霊像を発見した鷹坂山の猟師(後の網衣上人)が発心出家して建てた福納寺が前身とされます。平安時代の初め、諸国巡錫の途次、福納寺に立ち寄られた弘法大師が「是れより北に山あり 佳き堂地なり、彼の地に寺を移すべし」と仰せられたことから寛仁年間に現在地へと移転。寺号は表白山福成寺と改められました。今なお、当山に残っている「福成寺」と扁額の三字は、其の時大師の書かれた御真筆と伝えられています。
その後 西条一族の氏寺となり崇敬を集めていましたが、源平の戦禍に見舞われ伽藍を焼失、灰燼に帰した寺の再興を授けたのが、平氏に追われて西条の庄に落ち延び、やがて二神山に城を構えた源頼政の息室・菖蒲の前と伝えられます。
この頃 相次いで建立された諸堂宇は 元亨年間に再び火災に遭い全焼したものの、時の天皇の庇護を受けて復興を果たし、室町時代には安芸の國に進出して、一帯を支配した守護大名大内氏の宗教的拠点となって栄えました。大内氏滅亡後も毛利輝元公らの帰依を得た当寺は、この中世期に31宇の諸堂と42坊、北山12坊を数えるほど隆盛を極めたといわれます。しかし江戸時代に入ると寺領は悉く没収され、寺運は次第に衰退、さらに明治の廃仏毀釈の法難に遭い、一時は著しく荒廃していましたが、檀信徒や地元の方々の浄財による、大正時代の初期の大修理で本堂が蘇り、今日まで法灯を絶やすことなく守り続けています。
(市重要文化財:令和5年7月27日指定)
仁王門は18世紀中期の建立であって、寛政3年(1791)葺替えの棟札が存在。八脚門、入母屋造、銅板屋根。仁王門としては地域最大級。軸部や組物などは建設当初の部材をよく残し、絵様や彫刻など18世紀中期の特徴を有する貴重な建築として評価されている。平成3年の台風被害により茅葺屋根から銅板屋根に修復されている。
眞浄上人は福成寺再興のため熊野権現に赴かれるも帰山なく、菖蒲の前が熊野権現を勧請して六所権現社に第一にお祀りされたのです。今も残っている六所権現とは ① 熊野権現(阿弥陀如来の垂迹) ②吉野権現(薬師如来の垂迹) ③八幡大菩薩(聖観音の垂迹) ④日吉山王権現(地蔵菩薩の垂迹) ⑤厳島大権現(十一面の観音の垂迹) ⑥白山大権現(釈迦如来の垂迹)の六体の権現を安置。
また、鎌倉時代に多田神社(兵庫県川西市)より六所権現の御神体を勧請したと伝えられている。
鎌倉時代に慶圓僧都より来迎院として建立され幾度となく火災に見舞われた。
その後昭和2年地元民により現在地に移築建立されたが老朽化のため、平成30年地元有志等により堂宇建立と九品佛修復を成す。
ご祈願、ご祈祷
加持、祈祷とは真言宗の開祖である弘法大師空海、お大師さまがこのように言われています。
「加持とは、如来の大悲と衆生の信心を表す、仏日の影衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」と。
仏の慈悲の心は常に衆生に注がれています。
その事を「加」と言い、信仰心の厚い人が仏の慈悲の心をよく感じ取る事が出来る事を「持」と言います。
真言密教の行者は仏の慈悲の心を感じ取るために、手に印を結び、口に真言を唱え、心を集中します。
このことを三密行といい、仏に願主の願いを届けて成就を祈ります。
開運厄除け 災難消除 病気平癒 商売繁盛 社運興隆 工事安全 必勝祈願 地鎮祭 家祈祷 車安全祈祷 等
当寺は菩提寺が無い、あるいは菩提寺が遠方にある方宗派にこだわらない方からの葬儀を受け付けております。
葬儀は当寺の宗派である真言宗御室派の儀礼に沿って執り行います。真言宗では葬儀の事を引導作法と言い故人を大日如来のおられる密厳浄土に送る作法です。
回忌法要、お盆参り、水子供養、墓じまい、永代供養、合祀墓など
まずはご相談ください。
所在地 | 〒739-0023 広島県東広島市西条町下三永3641 (東広島天文台のすぐそばです。) |
---|---|
アクセス方法 | ●電車でお越しの方 JR山陽本線「西条駅」下車 タクシー約20分 JR山陽新幹線「東広島駅」下車 タクシー約8分 ●車でお越しの方 山陽自動車道 西条ICから約20分 広島カンツリー倶楽部西条コース入口から約5分 東広島・呉自動車道 下三永福本ICから約10分 広島カンツリー倶楽部西条コースから約5分 |
見出し | ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。 |